ジム・クロウ法とペニーファージングの時代に、Katherine “Kittie” Towle Knoxは、自分の人生を自分らしく生きたいと思っていました。
7歳で父親を亡くしたKittieは、母親と兄とともにボストンの西端にある貧困地域に引っ越しました。家族が生き残るために、10代のKittieはお針子として、兄は蒸気管取り付け作業員として働いていました。
幼少時代にサイクリングに興味を持ったKittieは、お針子で稼いだお金を何ヵ月もかけて貯めて自分の自転車を買いました。1800年代後半には、最新のステアリング式の前輪とドライブチェーンの登場により、自転車はより安全な乗り物になっていました。このことは、それまで以上に多くの人々、特に女性の自由が拡大したことを意味しました。
当時、女性がサイクリングをすることができる唯一の場所がセンチュリーライドでした。Kittieィが乗ると、その才能により次第に多くの人に知られるようになりました。
ジャーナリストたちは、100マイル(約161km)のサイクリングライドと上位20%の完走者に焦点を当てるのではなく、Kittieのユニークな格好と自転車のテクニックを詳細に調べ始めました。 やがて、ジャーナリストたちはKittieを「美しい、豊満な、黒いブルームライト」と表現し始めました。
自転車の価格が下がったため、平均的な労働者階級の市民は突如として、自分の自転車を購入できるようになりました。しかしながら、性差別や人種差別的な社会通念やしきたりがなくなることはありませんでした。つまり女性が自転車に乗るときは、相変わらず動きづらい高価なロングスカートを履かなければならないことを意味しました。女性にとって安全は二の次で、ファッションが優先されました。
より機能的なサイクリングアパレルを見つけようと、多くの女性が自転車に乗るときに短いスカートを履くようになりました。Kittieは違いました。効率的なものを望んだKittieは、ジェンダー規範など気にもとめずサイクリング用ニッカーボッカーズを縫ったのです。これでスカートの裾がチェーンにひっかかってしまう心配はありません。
Kittieのニッカーボッカーズは、膝下を絞って長いストッキングの中に折り込まれた男の子用のバギーニードブリーチ(乗車用ズボン)にそっくりでした。太もも部分は、より自由な動きを可能にするような幅広のフレアになっていました。
女性はLeague of American Wheelmen(リーグ・オブ・アメリカン・ホイールメン: LAW)の下で自転車レースに参加することが禁じられていたため、自転車競技ではなく衣装コンテストに参加していたのです。 1895年7月4日にウォルサムサイクルパークで開催された自転車競技会に出場したKittieは、圧倒的な勝利を収めました。そのとき着ていた衣装の縫製とデザインはKittie自身によるものでした。 The Bearings誌は、Kittieの衣装を「シャツブラウス、メンズのショートコート、そして膝までブルマーで構成され、膝下からタイトなレギンスが付いているスーツである」と説明しています。帽子を含めて、衣装全体がチェック柄で統一されていました。
チェック柄であろうとなかろうと、Kittieがニッカーボッカーズを着用していたのは、単純にスカートが実用的ではないからでした。スカートが実用的だというのであれば、男性はブルマーではなくスカートを選ぶに違いありません。
1880年、アメリカ国内のサイクリングクラブを統合してサイクリスト擁護活動でより力強い声を上げるため、League of American Wheelmen(リーグ・オブ・アメリカン・ホイールメン: LAW)が結成されました。 同リーグは全会員から会費を集め、男性サイクリストが国内のイベントでレースに参加するための会員カードを発行しました。
人種差別主義者がジム・クロウ法を開始し、1893年には南部全体で史上最高数のリンチ数を記録していました。変化をもたらすために貢献したいと考えたKittieは、LAWに参加しました。
元連合軍大佐で弁護士のWilliam Walker Wattsは、黒人をLAWから排除し、さらに参加も阻止するキャンペーンを開始していました。黒人会員のせいで白人が組織への参加を止めたのだと、Wattsは信じて疑いませんでした。
Wattsが組織の内規を変更するためには、投票で過半数の3分の2を確保する必要がありました。 Wattsの試みは2度にわたり失敗しました。結局グループの分裂が激しくなり、2回目の投票ではLAWとの関係を完全に断ったクラブもありました。1894年に、Wattsはようやく必要としていた得票数を確保し、その後リーグは「白人以外は会員になれない」とするように内規を変更しました。
ミシシッピ州全域のサイクリングクラブを「カラーバー」(人種割り当て)が席巻したため、複数のクラブでは「カラーバーなしで」センチュリーライドを主催する機運が高まりました。Century Road Club of Americaは、黒人アスリートを歓迎するセンチュリーライドを主催しました。Kittieは思い切って登録し、雷雨が町を襲ったにもかかわらず、ボストンからプロビデンスまでのセンチュリーライドに参加しました。彼女はBクラスでゴールした唯一の女性で、「泥だらけではあったが疲れ果てることはなかった」と伝えられています。
Kittieが21歳のとき、ニュージャージー州のアズベリーパークで開かれたリーグによる白人のみでの年次大会では、30人のボストンサイクリストのパレードに参加しました。Kittieはクラブハウスに乗りつけ、ボランティアに止められるまでトリックを披露しました。Kittieはクラブハウスに入り、リーグの会員カードを係員に提示してレースバッジを求めましたが、クラブは「カラーバー(人種割り当て)」を理由に彼女の会員カードは無効なものとして拒否しました。
Kittieがクラブハウスから非常に静かに撤退したか、反抗的に退室したかは、新聞社によって報道がまちまちであるため真相は定かではありません。しかしその後、「…Press Cycling Clubの Robinsonという救世主が現れました。Kittieのバッジを確保してくれた」とBoston Herald紙は伝えています。 つまり、「カラーバー」にもかかわらず、Kittieはレースに参戦することができました。
アズベリーパーク大会後、Kittieは黒人エチオピア人のサイクリングクラブであるPhiladelphia Meteorsを訪ねました。クラブはタイオガのレースにKittieを連れて行き、花火も鑑賞しました。 Kittieの目的は自転車レースに出ることでしたが、友人を作り、楽しいひとときを過ごしました。
アズベリーパークでの差別にもめげず、Kittieはピンクのトップス、黒いスカート、特大のレッグホーンハットという出で立ちでリーグのダンスパーティーに出席しました。Kittieは「白人パーティー」で唯一の黒人女性だっただけでなく、ダンスフロアに立った最初の黒人女性でもありました。このようにして会員同士の争いは、「白人のみ」信奉者と、それが人種差別的で間違っていると主張人々の間で起こりました。
LAWのBulletin & Good Roads誌の1895年7月号には、Kittieがリーグに登録したのは1893年4月21日であり、LAWが1894年2月20日にその規約に加えた「白人のみ」の条項を遡及的に適用することはできなかったと書かれています。
こうしてようやっと、LAWはKittieを会員として渋々受け入れ、KittieはLeague of American Wheelmenに参加した最初のアフリカ系アメリカ人となりました。
サイクリング界全体において、Kittie Knoxの名前は総じて見出しに取り上げられました。 New York Times、San Francisco Call、Boston Herald、The Referee、Cycle Trade Journal、The Morning Express、Indianapolis Freeman、Bulletinなど、ジェンダー規範から逸脱したKittieの服装と振る舞いについて一斉に取り上げましたが、Kittieが現状に屈しることはありませんでした。
女性向けのサイクリングアパレルに実用性を求め、サイクリングクラブ内の人種差別廃止の気運を高めたKittieのおかげで、性別や人種を問わず、すべての人がサイクリングを楽しめるようになったのです。
自転車が女性解放のためのツールとなった理由の1つがKittieだったのです。Kittieが自分自身の道を歩むことで、自転車のハンドルにしがみつく性差別主義者から、過剰な人種差別主義者まで、誰もが気分を害しました。しかし歴史を変えてきたのは順応主義者ではありません。Kittieのような反抗者だったのです。
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